飽和47年11月21日 朝の御理解



 御理解 第74節
 「可愛いと思う心が神心じゃ。」

 御理解 第75節
 「人を殺すと言うが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
 信心は、和賀心が神に向かうのを信心と言うのじゃとも教えられます。ですから、神へ向こうて行くという、その心の状態は、段々、神心が強うなって行くと云う事だと思うです。神心が、いよいよ、本当な物になって行くと云う事が、信心が本当なものになって行くと云う事だと思うです。可愛いと思う心が、神心じゃと言う神心とは、どういう働きをするものかと。神心、それはやはり、自分自身が助かる。自分の心に合掌出来る心だと思うんですね。その神心はね、一切を育てる。一切を生かす。
 そういう働きをする神心と言うのは生かす育てる。そういう働きをするのが神心だとこう思う。ね。ですからどうしてもその神心を目指すと云う事が、どの様に素晴らしい事かと言う事が解ります。次の75節に「人を殺すと云うが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」と仰る。所謂神心とはおおよそ違った心。
 いわゆる神心の反対の心、ね。心で殺す事が出来る程しのもの。心はだから刃の様な物だ。心で殺すことすら出来る。いや心で傷付ける事が出来る、心で傷付け心で殺す事が出来る、ね。そういうのは例えば形でそれが、殺したり傷付けたりするなら、それはお上があって、ちゃっとお仕置きに合うのだけれど、心で殺すのが思い罪じゃとこう仰る。ね。神が見ておるとこう仰る。ね。
 だから神様が見て御座る、ね。心で殺せばそうした、神様からのお仕置きを受けなければならない様にそれと反対に、ね。心で傷付いているものを癒してあげる。ね。心で半死半生のものを生かしてあげる。ね。癒し、または生かし、または育てるという心が神心だという事になりますですね。だから信心とはその神心を、愈々強くして行く事だと。ほんならその神心とは、可愛いと思う心が神心じゃと。
 大阪難波の近藤藤森先生だったと思うですね。大阪から御本部へ、教祖様のご時代に、繁々とお参りになられる。月参りをなさっておられる。その途中で霞網を持って、沢山の雀をとっておる、その情景を見られた。そういう場面に合われた。何にも知らずにこう遊んでおる、沢山の雀がそれこそ一網打尽に殺されてしまうわけですよね。それをご覧になって、御本部に着かれてから、金光様にその話をなさった。
 金光様今日は道々、こう云う様な事をする氏子がおりましたが、可愛そうな事をするもんで御座いますと言うて、お話を申し上げた時に、教祖様がその可愛いと思う心が神心じゃと仰った。その時に是はこの御理解が頂かれたと云う事で御座います。ね。何とかして、それをね、その殺すのではなくて、何とか助けてやる方はなかろうか。何とか生かしてやる方法はなかろうか。ね。そういう心が動いておる、ね。
 その心が神心じゃと、こう言うのです。私はお道の信心は何を説くかと。是は何時も申します事ですけれども。仏教では慈悲を説くと。キリスト教は愛の心を説くと。とまぁ簡潔にその宗教宗教の、そのまぁ教えのまぁ中心になると云う物がです。その様な風に言われております。それで金光教では昔から、真だと云う様な意味のことを申します。真心だと言った様な事を申しますけれども。私はその真だとか真心とかと言うよりも、私は金光教では、この、神心を説くんだといったが一番、的確の様に思うですね。
 金光教では神心を説くだけではなくて、神心になる事を説くのである。ね。それで私共の人間の心の中には、それと反対の傷付けたり、殺したりさえ出来れる、その心と言うものをです。それと反対に傷付いておるなら、それを癒してあげ。半死半生でおるならそれを生かしてあげ、ね。しかもそれをはぐくみ育てる、私は働き。そういう心が神心だと。だから可愛いというのは、あのむぞがり殺しと言うのがありますよね。
 可愛そうだ、可愛そうだと言うて、あんまりむぞがりよると、かえってむぞがり殺しをする。かえって小さい芽が出ておるのを、あんまりこうむぞがりよると、枯らかしてしまう。あんまり肥料をやり過ぎたり、水をやり過ぎたりして、根腐れにしてしまう。ね。ですからあの、此処で言われる所の可愛いという心は、何処までもやはり神心でなからにゃいかんのです。
 だから私共が言う可愛そうとか、あのもうむぞして応えんと言うあれとは違うです。ね。人間が言う例えば可愛いというのじゃ無い。ね。何とかそれを例えばそこに、一網打尽に捕られておる雀を見て、はぁ可愛いものじゃと何とか助けてやる方はなかろうかと。それなんです神心とは。ね。私共が古今とこを間違いますとです。いわゆるむぞがり殺しをする訳です。ね。または確かにこの人の事を思うて叱りもすりゃ、叩きもするという場合もあります。ね。
 だからそれが、彼を生かす事になれば、それが彼女の傷を癒す事になれば、それは有難いのですけれどもね。確かにこの人の事を思うて言うた事が、かえってその人を殺してしまう様な事になる。そこにです、私は徳の相違と云う物を感じます。ね。本当にこの人の事を思うからこそ言いよると。けど相手がそれによって腹を立てた。そしてかえって敵討ちするというのがあります。もう目も当てられない事でしょうが。
 その人の事を、本当に思うたから言うた。言うたらその言われた方は、あぁいう事を言われたと言うて、腹を立てて、今度は反対に仕返しをすると云う様な事になって来る様な。だから此処に私は考えなければならない事は、如何にその、私共のこの神心と言うものの内容が、お徳でなからなきゃならないかと言う様な事を感じますね。そら親が子供が可愛いくない親はありませんね。ですから場合にはそれが、いわゆるむぞがり殺しになる様な事になったり、悪い事をすりゃ可愛い。
 先々これがこの様な性根では、不幸せになるだろうと思うから叱りもすりゃ、撃ちちょうちゃくもするけれども、ね。それが例えばその、生かす事にならずに、いわばかえって殺す様な結果になると云う事がです。かえって反発さえする事になると云うなら、それが如何に親心であっても、これは神心ではない事になります所に、神心と言うのは兎に角、やはりね。いわゆる神様が使いになる心なのですからね。いよいよ高度なものであるね。そこでその神心というのがです。
 私共の思うておる、可愛いと思う心がです。帰ってむぞがり殺しをしたり、かえって反発をさせたりする様な心でしか、いわばないので御座いますから。その自分の神心を、いよいよ育てて行く事の為に、私は言うて聞かせるとか。または叩いてでも分からせるという生き方は、非常に危険だと云う事になります。ね。そこで、ここで言われる所の、その、黙って祈ると云う様な生き方こそね、いよいよ神心を身に着けて行く、一番素晴らしい生き方だと思います。ね。
 可愛いと思うなら思うほど、その人のために祈る。その人の為に修行をする。ね。お天道様と、風の神様が、力比べをなさったという話があります。下を通っておる旅人が、外套を着て旅をしておる。それでお天道様と風の神が話した。あの旅人の外套をその脱がせる。ね。それで私が脱がせきるか、あんたが脱がせきるか、二人でそのいうならば、力比べをしようと云う事であった。
 そこで先ず風の神様がすごい、ものすごい風を送られた旅人の上に。そらもう本当に外套でも何でも、もう吹き千切る様な勢いで吹いたけれども、その旅人はもういよいよその外套をこうやって、一生懸命に取られてはならんと思うてその、とうとう外套を脱がなかったとこういうのです。そしてその後で今度はお天道様が、それこそ柔らかな暖かい、いわば陽光をお日様の光を送られた。所が何時の間にか、その旅人が外套を脱いだという話がありますよね。
 ですから私共はそういう生き方を身に着けて行くと云う事が、傷付けないで済む殺さんで済む。生かしていき育てて行く一番の、私は素晴らしい生き方だと思うです。今だから合楽で言われるその、黙って治めると云う事、ね。目に余る例えば事がありましてもです。ね。それを神様に詫びて行き、お礼を申して行き、そしてお願いをして行く。そらもちろん、自分の心の上にも彼の上にも、それを侘びたり願ったりしてあげれる。
 しかも許せない事であっても、それを寛大な心で、許して行くと云う様な心の状態の上にです。何時とはなしに、その旅人が外套を脱ぐ様な働き。そういう働きこそが、いわば私共が行わせてもらう。私共が行じさせてもらう神心にならせて頂く手立てというか。そういうおかげを頂いていく事だとこう思う。けれども今申します様に、叩いてでも、言うて聞かせてでもです、ね。それが本当のいわば、神愛ですね。
 である場合は相手が必ずそれで助かる。必ずそれで生かす事が出来るのですけれども、その私共はその尺度を持たない。自分の神心がどの程度に、相手に響いて行くかと、ね。そこでまぁ時折は言うてもみるし怒ってもみる。けれどもそれが反発されたり、却って結果が悪かったりと云う様な、はぁまぁ自分の神心というのは、この程度のものであると云う事を、先ずは知らなければいけない。悟らせて貰うて。そしていわゆる黙って治めるという生き方。そこからいよいよ神心が育って来るという風に思うです。ね。
 そこから相手だから、もうかまわんと言うのではない。もうそれは切実に叩くほどに言うて怒る程しの、言うならば熱情をもって、黙って祈るというのでなからなきゃいけない。ね。それを怒ったりいうならば叩いたりする。そこには一つの熱情があります。ね。そういう熱情を内に込めて行く。ね。祈りの中にそれを抱擁した心の中に、そういう心の抱擁されたものを、私は神心だという風に今日は皆さんに聞いて頂いた。
 しかもその神心こそ、金光教の信心の、最高位の心であると思うです。ね。仏教で慈悲を説き。キリスト教が愛の心を説くというが。その仏教もまたは慈悲の心も。キリスト教でいう愛の心も。また金光教で言われる、真とか真心とか云う様な物も。それをね皆んな一つにして、私は表現するならば、それを神心と言うのではなかろうかと思うのです。愛の心も慈悲の心も、やはり相手を育てるという心なのです。相手を生かすというやはり心なのです。それをもっともっと偉大にしたもの、ね。それが私は神心だと思う。
 だから金光教では結局神心を説く。だからその神心を説かれるのであるから、その神心を身に着けて行くと言う生き方。ほんなら神心の中には撃ちちょうちゃくしてからでも、分からせ様とする。言うて聞かせて分からせる。言うて聞かせて叩いてでも生かそうとする、育て様とする生き方も確かにある。神様の働きの中にはそれがあるのですやはり。ね。だからと言うてこちらが信心も出来ん、徳も受けんでほんなら、怒ったり叩いたりしておったのではです。
 確かにその人の事を思うてから、言うたりしたりしておるのだけれども、枯らす事になる殺す事になる。と言うほどしに危険なものなんだ。私共のその怒ったり、叩いたりすると云う事は、ね。そこで一番危なくない、間違いなくおかげが頂けれる心というのは、結局黙って治めるという生き方こそが、一番素晴らしいのだし、ね。そういう心を使わせて頂く事を、私は神心をいよいよ、身に付けて行く一番の間違いのない手段であるという風に思うのです。ね。
 心で殺すのが重い罪じゃと。神が見ておると云う事は、神様のお仕置きを受けなければならないと、七十五節に説いてありますのですけれども。七十四節のいわば神心じゃというのは、それとは反対の心。心で生かす心で育てる心で癒すという、いうならば働きと云う物がなされるならばです。神がやはり見ておいでなのですから、お仕置きを受ける反対のいわば褒章を受ける。
 ご褒美を受けても良い事になるのじゃないでしょうか。それが私は徳だ。ね。それが真の意味においてのおかげだという風に思うです。いよいよ神心を強うして行く。いわゆるいよいよ広い大きな心を願って、または求めての信心こそ、神心を心に頂いて行く生き方だと思います。ね。私共がややもするとです。ただ可愛いとか可愛そうとかと言う、ね。小さいいうなら人間心が生まれて来る、可愛いというのは、かえっていわゆるむぞがり殺しをする結果になったり、ね。
 それが反対に反発をされたり、ね。枯らしたり殺したりする様な結果にすらなるのですから、ね。いよいよ人が助かる育つまたは癒す。そういう働き、心の働きをです、ね。成程黙って治められる。ね。黙って祈る事が此の様におかげを頂く事だと言う風にです。それを体験して行くと云う事が、私は御道の信心だと思うです。ね。そこには必ずいわゆる心の行、いわゆる心行とこう言われる、ね。
 成程形でする行よりも、心の行が素晴らしい。ね。金光教では心行を尊しとされる、心行の意味も分かる様な気が致します。心行には必ず形は伴うて来ます。昨夜の御祈念、光昭が当番でした。で御祈念の後に皆さんにお話を聞いて頂いてたんですけれども。御祈念中に思わせて頂いた事は、もう様々な自分には欲があるけれども、信心欲が欠けておる事に気が付いたと。素晴らしい事ですね。いわゆる信心欲。いわゆる我情我欲でなくて信心欲。信心を本当に身に付けたいという欲、ね。信心欲。
 昨日私が、夕方からずうっと奉仕しとりましたから、自分の当番時間にやって来ましたです。けども、「お父さんが奉仕しとるから良いよ」と。その時に「あぁそうですか」と言うて、普通ならば食堂さん行ったり、テレビ室さん行ったりして、まぁテレビでも見たり、お茶でも飲んだり、御祈念の時間までするだろう。けれども、昨日はまぁ、そうお父さんに言われたけれどもやはり、御広前に奉仕させて頂いておったと。これはいわゆる信心意欲なのです。ね。信心意欲がある時には、そうするのですけれども。
 信心意欲がない時にはもう良か幸いで、テレビの方へ行くというのが、信心意欲がない時です。ね。そういう信心意欲を燃やす。たった一時間ではありますよね奉仕が。そして御祈念ですから、まぁ御祈念七時から八時から九時までですかね。今、九時に終わっておりますから。いうなら二時間。御神前に向かって神様へ向かって、それから御祈念を終わって皆さんに聞いてもらう。その話が素晴らしい話になって来る。信心意欲を燃やしておる時の話は違う。ね。
 自分の心が、神様へ向かっておる時の信心は、だからもう信心の話ばかりは、もうそのこら良い話が出来るとか、出来ないじゃなくて心を、神様へ向けておるという時のお話は、そこに自分も有難いが、聞いておる者も有難いのです。ね。ですからその信心意欲を燃やすという。信心意欲のない時は、もう信心話は出来ません。皆さんも体験があるでしょう、ね。ましてやいうなら神心。ね。神心を頂いて行こうとする私は信心。いわゆる本当の信心を頂きたいという信心意欲を持っておらなければ。
 ただ黙って祈ると云う事が、ただ消極的な事ではなくて、言うよりもいうならば例えて分からせ様とする熱情よりもです。もっともっと積極的な熱情がなからなければ、私が今日いう神心は育たないと云う事であります。ね。言うて分からせるよりも、言わずに分からせれる熱情と云う物は、そのくらいな事ではないのです。いわゆる意欲を燃やしておかなければ出来る事ではないのです。ね。ただその頂き損ないますとですたい。もう言わずに黙って祈る。成程祈っておるけれども、そこに熱情も何も感じられない祈りであっては、それが成就するはずはありませんから、ね。
   どうぞ。